どうしたらマネジメントはうまくいくか4|お知らせ|オンダ国際特許事務所

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どうしたらマネジメントはうまくいくか4

(パテントメディア 2020年5月発行第118号より)
会長 弁理士 恩田博宣

1.はじめに

中国武漢発の新型コロナウイルスは、感染が中国のみならず、日本はじめ全世界に拡散しました。オリンピックの開催は、一年延期となりました。一体このウイルスの終息はいつになるのでしょうか。

この先間違いなく起こると予想できるのは、深刻な不景気です。物流が途絶え、生産が停止するだけではなしに、人の移動が途絶えることによって、あらゆる産業の収入減が原因となって、物が売れなくなり、サービスにも、製造の現場にも不景気が及びます。長らく続いた景気の良さも、このコロナショックで不景気へと暗転することになるでしょう。

われわれ特許事務所業界に対しても、知財活動の減退による出願件数減現象が起こり、リーマンショックを超える不況がやってくるのではないかと思います。

このように厳しい近未来が予想される特許事務所を取り巻く経営環境を乗り切るために頼りになるのが、京セラのフィロソフィ(経営理念)です。

本号においても、また、京セラフィロソフィを取り上げます。経営者としてそのマネジメントに対して、心すべきことが勉強できます。京セラフィロソフィを紹介し、筆者自身にも言い聞かせながら、そのフィロソフィと符合する筆者の経験を述べたいと思います。

2.京セラのフィロソフィ その1
2-1)素直な心を持つ

京セラのフィロソフィでは、次のように説明されています。

「素直な心とは、自分自身の至らなさを認め、そこから努力するという謙虚な姿勢のことです。とかく能力のある人や気性の激しい人、我の強い人は、往々にして人の意見を聞かず、たとえ聞いても反発するものです。しかし、本当に伸びる人は、素直な心をもって人の意見をよく聞き、常に反省し、自分自身を見つめることのできる人です。そうした素直な心でいると、その人の周囲にはやはり同じような心根を持った人が集まってきて、物事がうまく運んでいくものです。自分にとって耳の痛い言葉こそ、本当は自分を延ばしてくれるものであると受け止める謙虚な姿勢が必要です。」

その例として、松下幸之助さんのことを挙げています。

「この素直な心の大切さを説かれたのが、あの松下幸之助さんでした。松下幸之助さんは小学校さえも満足に行かれていないのに、あの松下電器という大企業を作り上げられました。その原動力とは、まさに素直な心なのです。

松下幸之助さんは、戦前すでにすばらしい成功を収められました。そこでもし傲慢不遜になり『自分は偉い』と思いあがっていたとすれば、おそらくそこで発展は終わっていたことでしょう。しかし、歳をいくつ重ねられても、『自分には学問がない。学校も出ていない』といって、『耳学問であっても、他人様に教えてもらって自分を成長させていこう』という姿勢を変えようとはされませんでした。そのため、人の意見を聞いて物事を学び、それを通じて生涯発展、進歩を遂げていかれたのです。」

2-2)筆者の経験(素直な心 その1)

筆者は若い頃、自己主張が強く、失敗を繰り返したので、サラリーマンとしての出世はあきらめざるを得ませんでした。資格で商売をするのなら、人間関係は考えなくていいだろうと、弁理士になりましたが、今度は部下との軋轢が事業の発展を妨げました。SMIという自己啓発のプログラムで、「人生成功の秘訣は目標設定にあり」を学び、人間関係の向上を目標に掲げました。しかし、日頃の業務において、どのように部下に接するかの具体的手段は、雲をつかむように混沌としていました。

筆者は朝早く事務所に出ます。女子事務員が定刻前に出勤してきます。筆者の前を「おはようございます」の挨拶をせずに通り過ぎます。「近頃の若者は挨拶もできないのか」と腹立たしくなります。いきおい、その事務員との関係は悪くなっていきます。何か仕事を命ずるときの言動もとげとげしくなるのです。女子事務員からの反応もなんとなく冷たくなっていきます。やはり、筆者の人柄が、人間関係を悪い方向へ導いているようです。

しかし、チャンスは偶然訪れました。夕食会の場で、コンサルタントの先生によもやま話のつもりで、「近頃の若者が挨拶一つできないのは、嘆かわしいことです」と、女子事務員の朝の出勤時の様子を話したのです。そのとき、コンサルタントの先生は、「所長の方から『おはよう』を言われてはどうですか」と何気なく、あたかもそれが当然のように話されたのです。

そのとき筆者の脳裏には、「目下の者が先に挨拶するのが当たり前なのに、こちらからするのか。そんなのあり?」という感覚と、「そうか、それは考えもしなかったなあ。なるほどそれはいいアイディアだ」という感覚が交錯しました。

夕食会の料理やお酒の味はどこへやら、会が終わるまで、こちらから『おはよう』を言うということばかりが脳裏にありました。そして、「明日はそれを実行しよう」思って、夕食会は終わったのです。

明朝、いつものように筆者の前を通り過ぎようとする彼女に対して、「おはよう!」と声をかけました。記憶は定かではありませんが、相当勇気を振り絞って言ったように思います。もちろん、彼女の方からも「おはようございます」と返事が返ってきました。何のことはなかったのです。彼女との間にあったモヤモヤ、冷たい雰囲気は一瞬で吹き飛んだのです。こちらもいい気分です。多分彼女の方もそうだったに違いありません。こうして人間関係の改善に一歩踏み出すことができたのです。ここには筆者がコンサルタントの先生のアドバイスを素直に受け入れるとともに、即実行したところに関係好転の原因があったといえます。

その後、かなり時間がたっていましたが、AIA(Adventure in Attitude)という自己啓発のプログラムで勉強した内容には、この筆者の行動の正しさを裏付ける行動指針がありました。

2-3)悪化した人間関係の改善

AIAでは、悪くなった人間関係を改善する方法が、3つあるとしています。

改善方法 その1

その場の状況を変えましょう。職場において、上司が気に入らないのであれば、職場の人間関係がぎくしゃくしているのなら、職場の同僚が意地悪ならば、転職しましょう。

配偶者との仲がしっくりいかないため、喧嘩ばかりしているのならば、離婚しましょう。

近所の住民に常識がないため、言い争いが絶えないならば、引っ越しをしましょう。

このようにして、新天地を開拓すれば、人間関係は改善されることもあるでしょう。しかし、「泥棒にも三分の利」といいます。退職した、離婚した、あるいは、引っ越しをした本人が持っている問題点は、新天地にも付いていきます。本人の問題点はまた現れます。転職や、離婚や、引っ越しが繰り返されることになりかねません。

筆者の事務所でも中途採用が多いのですが、しばしば、多くの転職歴のある応募者を見かけます。要注意です。改善方法その1は根本的な改善方法ではないようです。

改善方法 その2

その人を変えましょう。関係を改善したい相手の人を自分の都合の良い人間に変えてしまおうという改善方法です。

「あなた!お客様の前での貧乏ゆすりは止めてください」

「夕食時にはテレビは切ろうじゃないか」

「真剣な話し合いですから、腕組みはやめてくれませんか」

「食事中にスマホをさわるのはいかがなものでしょうか」

このような比較的軽微なことに関しては、相手の行動の変更を求めることができるケースがあるでしょう。それは、小トラブル解消の適切な手段になるともいえそうです。

しかし、「貴君のものの考え方が傲慢だ。もっと謙虚になるべきだ」

「君の仕事に向かい合う姿勢が、消極的すぎる。もっともっと積極的にやるべきだ」

「君は神経質だなあ。もっとおおらかになったらどうだ」

「あなたの子育てスタイルは、過保護ですよ」

「人生の目標もないのか。そんな人生、無味乾燥だぞ」

このように言われたとき、言われた人はそれを素直に受け取って、すぐ変われるかといえば、それはかなり難しいことでしょう。それは、今までの人生の中で多くの体験から作られた行動スタイルだからです。もし、変われるとしたらかなりの決断と継続した努力が必要でしょう。

となると、その人を変えて人とのトラブルを解消する、人間関係を改善することは、簡単ではないことがわかります。

改善方法 その3

人とのトラブルを解消するために、自分が変わる。自分の行動、ものの考え方を変える。前記の例では、筆者の方から「おはよう」を言うことによって、女子事務員との間の冷ややかな関係を修復することができました。典型的な事例でしょう。

自分が変わらねばと思い努力します。しかし、なかなか功を奏しないことがあります。人間関係が好転しないのです。そんな場合にも、「もっと変わらねば」と、さらに、自分に対して努力させるというプレッシャーをかけるだけで済みますので、精神的には楽なのです。

改善方法その2のように、変わってくれそうにない相手の人にプレッシャーをかけるのではないからです。

かなり前の話ですが。以下のような事例を小冊子で読んだことがあります。

妙心寺の管長さんが無文老師の時代のころの話です。ある老婦人、おばあさんの夫は医者でしたが、もう亡くなっています。息子も父親の跡を継いで、医者になっています。子育て中の若いお嫁さんもいます。そのおばあさんは月に1回の老師の講話の会に出かけます。無紋老子は繰り返し、繰り返し、例を変えながら「我を捨てなさい」「我を捨てなさい」という話をされます。おばあさんは朝そんなに寝ていられないものですから、早く起きます。しかし、お嫁さんは起きてきません。昨夜の食事の後片付けをします。つい、洗う器の触れ合う音がガチャガチャと心なしか大きな音になります。後片付けを終わってもお嫁さんはまだ起きてきません。お掃除をします。障子にはたきをかける音がパンパンといささか大きめです。そして何か月かたった頃、ふとおばあさんの心に、「ひょっとすると、あの器ガチャガチャや、はたきパンパンが私の我じゃないかな。我かもしれないな」と気づきが生じます。

そして、おばあさんはそれからというもの、そーっと器を洗い、そーっとはたきをかけるようにしました。暫くしてお嫁さんはおばあさんに対して、かしこまった様子で言うのです。「お母さま、いつも早朝に炊事の後片付けや、お掃除をしていただきありがとうございます。私、子育てで手がかかってしまい、つい疲れ気味なので、とても助かっています。本当に感謝しています」

それからというもの、このおばあさんとお嫁さんは、以前にもまして仲良くなったというのです。

おばあさんが自分の我に気付き行動を変えることにより、お嫁さんとの関係を良化向上させたという事例です。人間関係の改善のために、参考になります。

2-3)筆者の経験(素直な心 その2)

1985年のことです。筆者は豊田自動織機様の明細書担当として、しばしば、出願する発明のインタビューのために、同社を訪問していました。当時、同社はデミング賞にチャレンジしていました。デミング賞は、製造の現場のみならず、事務系の職場も含めた全社的な改善活動でした。

筆者は、当時トヨタグループで盛んにおこなわれていたQCサークル活動は、製造の現場の活動であって、事務の仕事にも適用できるものとは思っていませんでした。だから、その活動に大変興味をそそられました。

知財部もその活動に一生懸命の様子でした。当時の知財部長小林行司さんは「オンダ特許でもどうですか。やってみませんか。支援しますよ」と、当所にもその改善活動にトライすることを勧められました。

筆者はその一言でがぜんやる気になりました。冷静に、かつ素直に事務所発展のためには、絶対実行する必要があると思ったのです。こうして、筆者の事務所のQCサークル活動は開始されました。

といっても、当時指導者を探すのは、ひと苦労でした。月一回九州からQCの専門家の先生に出張してもらい、指導を受けたのでした。

始めてから10年の歳月が流れました。QCの成果は大いに上がっていました。しかし、所員にアンケートをとってみると、「QCは時間ばっかりかかっている。その時間で本来の仕事をした方がどれだけ儲かるかわからない。QCは止めるべきだ」という意見が93%を占めたのです。

筆者はそれほど嫌ならば、そして、時間がかかるのならば、QCは止めようかと思ったのです。それも正直、素直な考えからでした。

当時、筆者の事務所には、前述の小林行司さんが定年後、再就職してくださっていました。小林さんは強く主張されました。「QCは止めてはいけない。いくらトヨタグループの会社だったとしても、アンケートをとれば、皆止めたいと言うに決まっている。反対があったとしても、経営者の強い意志で引っ張っていくのがQCだ」と。

筆者はまた素直に「それもそうだ。継続しよう」と再決断し、続けました。それからまた25年の歳月が流れました。

そして、現在、QCを止めないでよかった。継続していて本当によかったという時代になりました。

特許事務所にとって古き良き時代は終わりました。出願件数の漸減、弁理士の増加、特許事務所の増加により、我々が受け取る手数料は少なくとも過去30年間上がることはなく、下がる一方でした。日本全体でデフレが長期にわたって継続しました。しかし、2%には及ばないまでも、わずかな物価の値上がりはありました。それよりも厳しい状況に置かれたのが特許事務所業界です。

しかし、優秀な人材確保のためにも、わずかであっても所員の給与は上げなければなりません。筆者の事務所で給与アップの原資となったのがQCによる節約効果でした。

その事例について説明します。当所の国際管理部外内グループの活動でした。外国から日本に特許を出願する際に、その事務を扱う6人のグループの活動でした。グループの一人が産休を取ることになったのです。正社員を募集する、派遣社員を雇う等が提案されました。しかし、一人前になるまでには時間がかかるし、素人ではかえって足手まといになるということもあって、QCサークル活動により5人で処理することに挑戦したのです。現状把握の結果、最も時間がかかる拒絶理由通知、拒絶査定、審査請求の3つの手続処理に焦点を当て、数多くの対策を打ちました。より効率よく仕事をするために、コンピュータソフトの改善をシステム開発部に依頼して、その協力も得ました。6か月の活動により、5人で処理できる体制を確立したのでした。単純に考えただけでも、6人体制を5人体制にするのですから、対策を打たなければ、一人当り20%の仕事量の増加になるのですが、QCの効率アップによって、作業時間の増加を極限まで抑えてやり遂げたのでした。年間約600万円の節約効果が出ました。所員300人の給与アップに十分使える節約額です。

この活動はたった一つの事例にすぎませんが、全所では約40のグループの活動が休むことなく行われています。それぞれの成果が給与アップの原資となっています。

このような活動の35年間の積み重ねは、大きな成果となっています。QCサークル活動では、歯止めがきちんとかかる限り、その効果は永久に継続します。筆者の事務所のQCサークル活動で節約効果が金額で出てくるもののみ累積して、歯止めのかかる割合80%の0.8を掛けますと、ちょうど年間支給するボーナスの額に匹敵するのです。すなわち、ボーナスはQCで稼いでいるともいえるのです。

その外に効果が金額で表せない、品質アップの活動も多いのです。従って、そこから生まれる受注増等の効果も加えますと、さらなる成果があったといえます。

もう一つ、過去の活動から顕著な効果があったQCサークル活動の例をお話しします。

図面グループの活動でした。特許出願の図面は3次元CADコンピュータで描かれます。色々な線(直線、点線、曲線、ハッチング等)を描くコマンドは多くの種類があって、同じ図面でもコマンドの使い方が違えば、その図面を描く時間には差が生じます。

図面部は作図の効率を上げるためのQC活動にチャレンジしました。サンプル図を10種類以上用意し、全員がすべての図面を描き、各メンバーが何分かかったかを計測しました。

そして、一番速い人がどのようなコマンドを使用したかを調べ、全員が一番速いコマンドを使用するようにしたのです。当然のことながら、図面部の効率は大幅に上がりました。約40%の効率アップでした。年間の節約効果は500万円にもなったのです。

通常、自分が他の職員よりも速く描けるコマンドを使用していた場合、それを同僚に教えることはしません。自分だけのノウハウとしておけば、他者よりも好成績を上げられます。同僚に教えてしまっては、相対的に自分の地位が下がってしまうからです。

QC活動では、このように「全員で全体の効率を上げよう」というインセンティブが働きます。「力を合わせてことにあたる」という精神が養われるのです。QC活動の素晴らしい点でもあるといえます。

そのほか、最近ではぺーパレス化の実行でも、QCサークル活動は一定の成果を上げています。紙の印刷量が激減したのです。しかし、ちょっと問題もあります。

筆者は全出願書類、特許庁からの全文書をチェックしています。つい最近までは、包袋が山ほど回覧されてきました。机の上に大きく積み上げた包袋から必要書類を取り出して、明細書のポイント部分を見ます。意匠商標も同様です。庁からの特許査定や拒絶理由等の書類もすべて見ます。どの企業のどの出願が通ったかを確認し、拒絶関連の庁書類は36条関係を中心に詳しくチェックします。それが全てコンピュータの画面上でチェックできるようになったのです。一見進んでいるように見えるのですが、クリックしてもチェックすべき書類が現れるまでに1秒、2秒、時には3秒もかかることがあるのです。そして、チェックが済むと、画面上にサインをします。包袋に入った紙の書類でチェックする方が速いのです。

しかし、所員が大量の包袋を会長室まで運び、チェック済みのものを回収するのも大変です。時間の経過とともに、コンピュータの反応速度も速くなるだろう。紙よりも能率が上がる日が来るまでの過渡現象だと思って素直にペーパレスを受け入れています。

さらに、RPAの導入にもQCは威力を発揮しました。現在30種類の無人作業がRPAによって行われています。

以上の例からも、QCサークル活動が給与アップの源泉になることがご理解いただけると思います。

3.京セラのフィロソフィ その2
3-1)信念を貫く

京セラのフィロソフィでは、次のように説明されています。

「仕事をしていく過程には、様々な障害がありますが、これをどう乗り越えていくかによって結果は大きく違ってきます。

何か新しいことをしようとすると、反対意見やいろいろな障害が出てくるものです。そのようなことがあると、すぐにあきらめてしまう人がいますが、素晴らしい仕事をした人は、すべてこれらの壁を、高い理想に裏打ちされた信念でもって突き崩していった人達です。そうした人たちは、これらの障害を試練として真正面から受け止め、自らの信念を高く掲げて進んでいったのです。信念を貫くにはたいへんな勇気が必要ですが、これがなければ革新的で創造的な仕事はできません。」

稲盛和夫さんが電気通信事業に乗り出したときの話が紹介されています。

なぜ、京セラの事業と一見関係のない通信事業に乗り出したか。次のような信念があったからです。

すなわち、「大手通信企業の独占の中で、日本国民は高い通信料金を払わされている。世界的に見ても、こんなに高い通信料金は先進国では日本くらいのものだ。だから、自分が電気通信事業に乗り出して、日本の通信料金を安くしよう。国民のために自分はこの事業をやるのだ」という信念に裏打ちされた通信事業への参入でした。

事業が軌道に乗るまでには、様々な困難がありました。大手通信企業をはじめ財界からも多くのえげつないともいえる横やりが入ったのです。しかし、稲盛さんには通信料金を安くするという確固たる信念がありました。あらゆる困難を乗り越え、競争にも打ち勝って、現在のKDDIが完成されたのでした。

3-2)筆者の経験(信念を貫く)

昭和43年(1968年)、それまでの2年半のインターンを終了し、開業するにあたって、心に決めたのは、大手企業に使っていただけるような特許事務所、組織で仕事をし、優秀な個人に依頼が集中するよう事務所ではなく、どの弁理士が担当しても高品質の明細書をアウトプットできる事務所を目指すことでした。必然的にある程度多人数の事務所を目指すことになります。

しかし、昭和40年代といえば、日本は高度成長期。人材の採用は困難を極めました。女子事務員を採用しても、半年も経たぬうちに「妊娠したので辞めます」、ある女子事務員は勤務時間中にお化粧をするものですから、「化粧は家でしてきて」といったところ、「辞めます」ということまである時代でした。工学部卒の人材の採用は、夢のまた夢でした。仕方なく、法学部出身の新卒者を採用して、図面作成から修行してもらうということまでありました。それでも何とか工学部出身の人材を中途採用できたのは開業から2年が経過したころでした。教育をして少し書けるようになった者が、「岐阜では弁理士試験の予備校がありません。東京へ行きます」といって退職。図面作成が少しできるようになった者が、「家業を継ぎます」と退職、泣くにも泣けない状況が続いたのです。

まるで神様が「お前は本当に組織的な特許事務所を作るつもりなのか」と試しているかのごとくでした。しかし、筆者の信念は変わりませんでした。また、新人を雇い、一から出発するということをしました。すると昭和47年、大企業の知財部に所属し、すばらしい品質の明細書の下書が書ける人材M君の応募があったのです。給与も大企業ほど払えないと確認しましたが、「それでもかまわない」ということで、採用ができたのでした。

今度は神様が「お前はよく頑張った。ご褒美だ」とでも言っているようでした。筆者の事務所の明細書スタイルはM君によって確立していきました。大手企業からの特許出願の受注にも大いに役立ちました。

それからも岐阜という地方都市に本拠を有する特許事務所として、人材の登用にはどうしてもハンディキャップがありました。なかんずく、弁理士の採用は困難を極めました。所員が30人を超える状態になっても、弁理士は筆者一人の状態が続きました。弁理士の採用に奔走しました。2人目の弁理士を採用できたのは昭和50年代になってからでした。その後も弁理士不足は続いたのです。

3-3)外国出願能力の醸成

昭和50年代になると、筆者の事務所の特許出願件数も増えてきました。外国出願の依頼が時々あるようになったのです。しかし、翻訳は外注に依頼してできるとしても、外国、特にアメリカへの出願がまともにできているかについては、非常に不安でした。当時、近隣の事務所において、外国出願能力をつける手段としては、優秀な所員をアメリカの特許事務所へ2~3年間派遣して、勉強させるという手法が普通でした。筆者の事務所でもそれを考えたのですが。家族そろってアメリカに派遣すると年間1000万円くらいの仕送りが必要でした。しかも優秀な人材ならば年間1000万円くらいの売上を上げています。その人材をアメリカへ派遣した場合、国内の売上1000万円はなくなります。さらに、1000万円の仕送りをすると2000万円を失うことになります。コンサルタントの助言もあって、2000万円支払うならば、アメリカ人特許弁護士を雇うことができるのではないかと考えました。しかし、どうやってアメリカの特許弁護士を雇うか、その手段もわかりませんでした。アメリカの特許事務所に雇いたいという依頼状を書き、当所を訪問する米国特許弁護士に頼むことくらいしか手段はありませんでした。苦節10年、平成元年(1989年)極めて優秀な米国特許弁護士を採用できたのです。スティーブ・バイヤー弁護士でした。それから2年、当所の外国出願能力は飛躍的に向上しました。おかげで大手企業からの外国出願依頼が徐々にいただけるようになったのです。大手企業からの出願依頼を組織で対応するという当初の目標達成へ一歩踏みだすことができました。

3-4)外内出願の獲得

上記のように、外国出願は徐々に軌道に乗り始めました。しかし、大手企業に使ってもらう組織的な事務所となるために、必要な条件として、外内出願の獲得が課題となりました。

外国への出願を現地の特許事務所へ送るものですから、そのお礼の形で少しずつ外内出願もはじまりました。しかし、出願件数はごく少数でした。

これをもう少し増やす必要がありました。そのためアメリカの特許事務所の行脚を始めました。英会話をまともにできない筆者は、通訳を連れての訪問でした。特許事務所の訪問は、依頼状を出せばそれほど断られることはありませんでした。「会話もできない弁理士に出願依頼なんかできない」と思われるのではないかとの不安はありました。しかし、旅から帰ると出願依頼がもう着いていることが、一度ならずあったのです。

当時、筆者の事務所に慶応大学の文学部と、オーストリアのザルツブルグ大学を卒業したN君がいました。英語とドイツ語に堪能でした。海外の特許事務所訪問、そして、アジア弁理士会やAIPPI等の国際会議には、彼と二人で行きました。二人三脚です。1年に1か月ずつ海外営業と称して、各国を歩き通しました。20年も続いたでしょうか。アメリカ、カナダ、ドイツ、イギリス、スイス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、中国、ベトナム、インドネシア、マレーシア、シンガポール諸国でした。特にアメリカには、何回も足を運び、多くの州を訪問しました。

国際会議におけるN君の活躍は抜群でした。初めて会った人とでも、じっくり話し合い、日本料理店に招待し、筆者の事務所の特徴を伝えました。帰国するころには、新しい事務所からの出願依頼が入っていることが、何回もあったのです。

外国訪問で企業を直接訪問したこともありました。しかし、取引のない企業訪問はほとんど実現しませんでした。訪問依頼状を出しても「ノー」の返事すら来ることはありませんでした。やり方がよくなかったのかもしれません。大手企業の紹介で、ヨーロッパ企業の知財部長を訪ねたことがありましたが、わずか10分の会談で終わってしまうということも経験しました。

こうして、外内出願も少しずつ増えていきました。大手企業に使ってもらえる組織的な事務所へとさらに近づいたのでした。

信念を曲げず継続した努力が必要だと感じます。

4.まとめ

今回は京セラのフィロソフィ「素直な心」と「信念を貫く」について、述べました。読み返してみると、稲盛和夫さんの素直さや信念の高邁さに比較し、筆者のそれはレベルの低さを感じざるを得ません。いや、肩を並べようとすること自体がおこがましいことです。所員から

「運転免許証を返上しては?」「老人にはコロナが感染しやすいから、会議には出ない方がいいのでは」などと言われる歳になっています。それでもさらに心を高めることにより、事務所のレベルアップの一助となりたいと思っています。

出典「京セラフィロソフィ」(稲盛和夫著,サンマーク出版)