【企業知財部から弁理士業界へ】私の二毛作人生模様(前編)|お知らせ|オンダ国際特許事務所

【企業知財部から弁理士業界へ】私の二毛作人生模様(前編)|お知らせ|オンダ国際特許事務所

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【企業知財部から弁理士業界へ】私の二毛作人生模様(前編)

副所長 弁理士 福井宏司

 

はじめに

私の二毛作人生は、一般企業(ダイキン工業株式会社、以下単にダイキンといいます)のサラリーマンとして過ごした一毛作目と、特許事務所勤めで弁理士業界に入った二毛作目とからなります。一毛作目は、1961年~1994年の約34年間です。その内訳は、研究開発部門が14年間で、知的財産部門が20年間でした。知的財産部門の20年間は、研究開発部門11年間を経た後の9年間と、再度の研究開発部門3年間を経た後の11年間との、2期に分かれていました。二毛作目は、ダイキン退職後の1994年から現在に至る約28年間で、そのうち現在のオンダ国際特許事務所での勤務は約20年間になります。85歳になって未だ現役として働き続けられていることは、人生100年時代に相応しい、私の誇りです。

どうしてこのような人生を得ることができたかを振り返りますと、天から授かった幾つかのターニングポイント(転機/転換点)において、人様のやりたがらないことを正義感に駆られて行動していたら特許業務に携わることになり、先輩の声に乗せられて弁理士になり、人の支援や励ましに支えられて弁理士業界に入り、そこに落ち着いてしまったという感じです。

ですから、私の二毛作人生は、計画的に描いたものではありませんし、自分の得意分野に進んできたということでもありません。一口で言うならば、天命に従って歩んできたに過ぎない人生模様ですが、一毛作目の人生において二毛作目への幾つかのターニングポイントがありました。そこで、どんなターニングポイントがあり、どのように対応したかを述べ、何らかの参考に供したいと思います。

研究職時代に事業部の特許管理責任者を命じられる    

私は、大学を卒業してダイキンに入社しました。ダイキンは、その当時すでに冷凍空調メーカとして国内でトップを走っていました。この冷凍空調機を製造する堺製作所の技術部研究課に配属されました。技術部は冷凍空調機の研究設計を行う部門でした。汎用製品の開発設計が技術部内の研究課で行われ、冷凍空調事業部の特許管理が、技術部内の技術管理課で行われていました。当時、冷凍空調事業部、油圧機器事業部、農業機械事業部などの機械部門の特許管理を統括する本社機構として、特許部が存在していましたが、冷凍空調事業部の特許管理を十分に指導するまでの力を備えていませんでした。このため早くから特許への関心が高かった化学事業部は、特許部の指揮下に入らずに独自に特許部門を備えていました。

私が入社して6年目頃に、冷凍空調分野の新製品開発を活発に行うために、技術部内に開発課が設置され、私は新設の開発課に配属されました。開発課の課員は、当然のことながらライバルメーカの開発動向に注目するとともに、彼らの特許にも注目するようになりました。その結果、ダイキンの特許管理は何かおかしいと感じざるを得ませんでした。
大きな問題として疑問視したのは、特許出願届の受理可否の判断と、申請書類の書き方でした。

技術管理課による特許出願届の受理可否の判断は、アイデアのユニーク性、技術の難解性といった独特の要素でなされているように思われました。また、特許出願届に添付する発明の説明書類は明細書スタイルの文章でなければならないとし、説明用図面も墨入れでなければならないとしていました。このような取り扱いはどう見ても納得できるものでなく、研究開発者も特許出願に殆ど関心を示さないという状況でした。

このように技術管理課の特許出願管理には問題があると感じていた頃でした。技術管理課の業務とされていた冷凍空調事業部の特許管理業務が開発課に移管され、当時開発課にいた3人の主任研究員補の中で最年少だった私に特許管理責任者の任務が命じられました。これが、天が授けた私の二毛作人生への最初のターニングポイントでした。

そこで、私は、開発業務の片手間の業務としてではありましたが、特許部との連携を密に取りながら、発明発掘業務の推進、特許出願届の作成要領の簡素化などの特許出願推進策を実行するともに、特許公報チェック体制、他社問題特許発見時の処理要領などの他社特許対策の強化策を実行しました。これらは、企業における特許の重要性の啓蒙にも役立ちました。

体制強化により他社の問題特許が次々に抽出されてきましたが、ダイキンの実施により出願前公知公用となっている発明が多いことに驚かされました。その対策としては、ダイキンの実施により出願前公知公用となっていたことを立証する証拠資料をまとめ、この資料を基に特許出願人側に出願前公知公用であることを説明して無償のライセンスを要求する方策がとられていました。出願前公知であることを立証して無償のライセンスを取得する方策は、当時においてはごく一般的な方策であって、同業企業間同士でお互いに多用されていました。もっとも、ダイキンの場合攻められるケースが圧倒的に多いという状態でした。

こうした交渉における他社への説明役として、技術内容をよく知る私がしばしば駆り出されました。当時のKa初代特許部長にお供して、何度も特許出願人との交渉に臨みました。このような交渉経験により、交渉の面白さを経験させてもらいました。一方、ダイキンの出願管理がしっかりしていれば、逆にライバル他社を苦しめることができたであろうと思うと残念でならず、特許管理の重要性を痛感しました。

しかし、特許業務がどんどん増え、片手間業務に収まらなくなり、開発業務に支障をきたす恐れを感じました。このため、適当なところで一線を画したいとの思いが増してきました。

 

特許部からの誘いに応える

開発課の業務として特許管理業務を続けるうちに、冷凍空調機の生産量、及び機種の増大により、製造工場が複数拠点に分散拡大し、それに伴い設計部門も、製造工場とともに複数拠点に分散化されました。例えば、家庭用ルームエアコンの製造ラインとその設計開発部門は滋賀県草津市の新工場へ移転し、業務用パッケージエアコンの製造ラインとその設計開発部門は堺市内の新工場へ移転しました。また、従来からの工場である堺製作所には、研究開発業務を行う研究部が創設されました。そして、新設の研究部には開発課が行っていた製品開発業務や特許業務も含まれることになりました。

工場とともに移転した設計開発部門では、研究部と地理的に離れるため、独自に特許管理を行う必要性が生じました。このため、創設された研究部で行う特許管理業務は、自部門の特許管理と、分散された各設計開発部門の特許管理業務を統括する業務とになりました。ただ、各設計開発部門の特許管理業務を統括する業務は、特許部の業務としてカバーした方がよいのではないかと思われました。

研究部には、新製品開発の複数の研究グループと、圧縮機、送風機、熱交換器などのコンポーネントを開発する複数の研究グループが形成されました。私は、エアコンの新製品開発グループ長となるとともに、研究開発企画の業務も任されました。そこで、開発業務に専念すべく特許管理業務を部下に任せるようにしました。こうして1年ぐらい経過した頃、上司のM研究部次長を通じ、冷凍空調事業部の今後の特許管理について相談を受けました。研究部が行っている各設計開発部門の特許管理業務を統括する業務は、本来特許部が直接行う業務であって、そのために特許部の人員強化を図るべしとの提案を行いました。そうしたところ、K特許部長から特許部にきて冷凍空調事業部の特許管理をやって欲しい、これをやれるのは君しかいないと強く勧誘されました。

私はエンジニアとしての大成を目標としていたので相当悩みました。学生時代柔道部に所属していた私は、「義を見て為さざるは勇なきなり」という武士道精神というか正義心に駆られて特許部に飛び込む決意をしました。

こんな心意気で行動したことはそれ以前にもありました。大学4年の卒業研究のテーマを決めるときでした。当初は人気のある真空工学に関連するテーマを選んでおり、4人ぐらいで一つのテーマをやることになっていました。いざスタートの段階で、「マイカ薄板の打ち抜き加工におけるクリアランスの影響」という地味なテーマを誰かやってくれないかとの要望が担当教授から出ましたが、誰もやりたがりませんでした。そのとき、それなら俺がやってやろうと買って出たことがありました。その時の心境に似ていました。会社の将来を考えると、ダイキンの主力事業である冷凍空調分野の特許管理は、誰か冷凍空調技術の分かる者がやる必要があるだろうとの思いでした。

後から分かったのですが、当時のK特許部長と、当時私の上司であったM研究部次長とは共に京都大学工学部出身で意思疎通が極めて良好だったようです。また、私の上司は、S次長からM次長に変わったばかりの頃でした、したがって、M次長と私との関係は、まだ日が浅かった頃でした。前のS次長は、公私にわたり付き合いが深く、私の人格形成にも大きな影響を与えた人でした。私にゴルフを始めさせたのもS次長でした。S次長がゴルフを始めるときに私を引っ張り込みました。会社帰りの打ちっ放しに何度も付き合わされました。そして、あるとき突然「今度の日曜日に外注業者の社長に誘われ初めてコースに出ることになった、お前も付いてこい。」と誘われました。私はゴルフ道具を一切持っていませんでしたので、プレー日の前日にゴルフ道具を一式購入しました。このため、ゴルフ場で初めてバッグからクラブを取り出すことになったのですが、驚いたことにクラブ1本1本にまだ包装用紙が巻かれていました。その後の人生において何人もの上司に仕えていますが、S次長ほど強引な上司は後にも先にもいませんでしたが、こんな愉快な思い出も他にはありません。今思えば、このS次長がその時の上司であれば、私が特許部に行く話は無かったと思います。

この上司の交代をきっかけとする特許部からのお誘いは、私の二毛作人生に最も大きな影響を与えたターニングポイントでした。

 

特許部の業務改革を進め、気分を良くしていた頃に先輩から喝!

私の経験からしますと、部門を変わったときほどいろいろな問題に気付くことはありません。私も、特許部に変わりたての頃に、いろいろな問題点が目につき、それらの改革を行いました。

最初にしたのは、転勤の動機にもなった冷凍空調事業部の今後の特許管理を統括するため、特許管理規定の作成を行いました。従来、特許に関する規定としては職務発明規定しかなく特許管理規定が存在していませんでした。そこで、発明発掘、出願届、特許公報チェック、他社特許対策など前職でやってきた経験を踏まえ特許管理全般にわたる特許管理規定を整備しました。これにより、冷凍空調事業部の特許管理を軌道に乗せることができました。

次に、ダイキンとして出願すべきものを漏らさずに出願するにはどうすればよいかという問題への取り組みでした。そこで取った作戦として、当時として革新的な特許マップ出願戦略に取り組みました。手始めに、総合家電メーカがライバルとして立ちはだかっている、家庭用ルームエアコン分野を中心に行いました。ダイキンの冷凍空調事業は、業務用エアコンが主流で家庭用エアコンは後発でした。ところが、この特許マップ出願戦略は画期的でライバル企業を大いに悩ませていたことが後で分かりました。ダイキン退職後もライバル企業側の方々との交流は続いていましたが、当時のダイキン出願戦略が話題になることが時々ありました。

特許マップ出願戦略は、開発テーマ毎にツリー状に整理したアイデアマップを作成し、このアイデアマップを基に網羅的に特許を出願する戦略です。アイデアマップは、開発テーマ毎に1~2時間ぐらいのブレインストーミングをしながらアイデアをツリー状に纏めたものです。ブレインストーミングの参加者は、開発テーマに関係する複数の技術者、その開発設計部門の特許管理者、そして私で、リーダは私が行いました。アイデアマップには、開発テーマ毎に抽出・列挙された課題、課題を解決する技術思想、技術思想に対応する具体的アイデア、各アイデアについての参考公知資料、実用性レベル、発明者、特許出願の可否などが分かるようにメモされます。課題や技術思想は、必要に応じ、大、中、小の概念に展開しました。具体的アイデアはできるだけ多く出し合いました。この作戦の良いところは、アイデアが課題毎に纏められていますし、公知資料も記載されていますので、一目で出願すべき範囲を理解することができる点です。また、このアイデアマップを纏めるに際しては、私が日頃テーマ別に整理していた特許公報集が大いに活用されました。特許公報集の提供は、アイデアマップの信頼度を向上させました。お陰でブレインストーミングを容易に仕切ることもできました。

また、私はこのようにして作成されたアイデアマップを持ち帰り、これを基に従来技術の問題点、発明の構成、発明の効果、図面などを書き出し、最終的に発明届として作成し、特許部として直ちに出願依頼する体制をとりました。

こうして私が出願すると、技術者の作業が大幅に削減されるので好評でした。初めの2年ぐらいは、私が中心になって推進していましたが、その後公開公報の発行件数が増加し、従来技術のまとめが自分一人では賄えないという状況になりました。このため、アイデアマップを作成する作業を発明部門で自主的にやってもらうようにしました。

そのような発明推進活動の成果は目覚ましく、出願漏れを解消するとともに、出願件数を大幅に増加させることができました。その頃他社では、発明者一人当たりの目標出願件数を設定する方策がとられていましたが、私はそのような目標件数の設定は一切しませんでした。

特許部に行って気が付いた大きな問題点は他にもありました。特許請求の範囲に無駄な限定事項の記載が多いということでした。私が特許部に移籍する前の段階においては、特許部員が発明者と直接打ち合わせた後に、特許事務所に出願依頼するようにしていましたが、発明者が最も好ましいと思っている実施技術を過度に意識するあまり、発明の本質を見失ってしまったと思われるものが多くありました。これでは侵害を容易に回避できる「ざる特許」を取っているにすぎません。例えば、当時世界特許出願中とダイキンが宣伝していた冷媒ヒータに関する発明も、国内外に出願されていましたが、「ざる特許」であったため、他社から類似商品が多く出てきました。こうした「ざる特許」問題を取り上げ、社内の開発会議等で報告するとともに、特許請求の範囲の書き方の重要性を説いて回りました。その結果、会議出席者や設計技術者から大きな反響がありました。当時の特許部担当役員であったY副社長からもよくやったとお褒めの言葉を何度かいただきました。

かくして、特許部移籍後の仕事ぶりは素晴らしい出来栄えでした。お陰様で1年後には同期仲間の先陣を切って課長に昇進し、仕事は順調に進んでいました、そして、特許部課長に昇進した次の年ぐらいから本社の神戸大学同窓会へ誘われるようになりました。神戸大学は私の出身校です。この同窓会は、住友化学からダイキンに来られたI専務取締役を中心に本社メンバーで形成されていました。本社は堺製作所にいた私の知らない人ばかりの世界でしたが、この会に出席するようになってから、本社で話し合える仲間が増えたのは大変有難いことでした。しかし、特許部に来て4~5年たった頃、この同窓会のある先輩から「貴方も特許部長になるつもりやったら、弁理士資格を取らないといけないのでは」と言われました。当時初代特許部長のK様と、後に2代目特許部長になったM様のお二人が弁理士資格を持っていました。先の同窓先輩からの忠告に対し、一般企業の特許部員は管理職であれ、一般職であれ弁理士である必要は全くない、何を言っているのかと言わんばかりに反論したのですが、「それは負け犬の遠吠えにしか聞こえん。悔しければ弁理士を取れ」と大喝を食らいました。その後気が付いてみると、二人の弁理士資格のある先輩により弁理士必要論がPRされていたのか、弁理士の資格を持っていないと特許部長にはなれないような空気が人事部あたりで形成されているように感じられました。これが刺激になって、それならば受けてやろうという気になり弁理士受験勉強を始める決意をしました。もし、この先輩の大喝がなければ、おそらく私は弁理士試験を受けていないと思いますし、私の人生も大きく変わっていただろうと想像します。これも大きなターニングポイントでした。