トップトーキング終了に際して|パテントメディア|オンダ国際特許事務所

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トップトーキング終了に際して

2022年9月
会長 弁理士 恩田博宣

1.はじめに

41年続けてきました本誌パテントメディアも改革の時期となりました。冊子での配布から、メール配信とホームページでの情報発信という形態に一本化することになります。今号が最後の冊子の配布となりますが、今後はホームページで、引き続きご愛読いただきたいと思います

また、内容を刷新すべく、オンダ国際特許事務所会長のトップトーキングも一旦終了することになりました。83歳という高齢ですので、引き時としては適切だと思います。

そこで、最終回として、長年にわたって書き続けたトップトーキングの中から印象深い記述を思い起こしたいと思います。

 

2.「知財マンの心理学」の出版

何と言っても、一番印象深い出来事は2019年(令和元年)8月に書籍「知財マンの心理学」を出版したことです。この書籍は筆者がパテントメディアに連載した記事をまとめたものです。販売はしないで、知り合いの同業者やお客様、希望のあった方に無料で配布いたしました。

筆者は特許事務所開業(1968年)当時、人との交流、なかんずく、従業員との仲がうまくいきませんでした。悩みぬいてたどり着いたのが、エリック・バーン博士(1910~1970)の提唱した交流分析(Transactional Analysis)という心理学の1つでした。

こまめに勉強して実践した結果、不十分ながらも人との交流をできるようなるという好結果を得たのです。当所が比較的大手の事務所に発展できたのは、この交流分析がおおいに役立っています。
交流分析の連載は2回行いました。1回目は1986年5月号から1996年1月号まで、なんと30回(10年)にも及びました。2回目は2014年9月から2019年1月号まで14回(5年)にわたって行いました。

内容は自我状態分析、やり取り分析、ストローク、ディスカウント、基本的ポジション、心理的ゲーム、時間の構造化、人生脚本の8項目です。いずれの内容も人間関係を良化向上するために役立つ事項でした。

筆者は特に2回目の連載において、事例のほとんどを特許事務所や企業の知的財産部における出来事に焦点を合わせたものとしました。従って、知財関係者以外の方には理解が難しいことも多かったかと思いますが、一般の人間関係の改善や子育てにも役立つ内容となっています。

 

3.交流分析の内容つまみ食い

本号では多くを紹介できませんが、交流分析の事例を2つ紹介します。

 
3-1)ディスカウント

1つ目はディスカウントです。ディスカウントは自分自身や他人、あるいは今起きている現実を無視したり軽視したり(ディスカウント)することです。

例えば、上司が部下に対して、「君の今日のネクタイは素晴らしいじゃないか。いいセンスをしているな。今日のスーツともぴったりだぞ」と褒めたとします。そんなとき、部下が謙遜は美徳とばかりに、「いや、このネクタイは大したもんじゃありませんよ。この間夜店で1000円ぽっちで買ったものですよ」と答えるようなことは、珍しくないやり取りです。

ここで起こっていることは、ネクタイの価値を、そして、1000円のネクタイしか買えない自分をディスカウント(値引き)しています。それだけではありません。上司の評価能力までディスカウントしています。上司の気分は何かしらよくありません。知らず知らずのうちに、人間関係をむしばむやり取りです。

褒められたときは、決して否定したり、軽んじたりすることなく、お褒めを丸ごといただくことが肝要です。「ありがとうございます。私のネクタイがそんなにセンスがいいとは、とてもうれしいいです」と答えるのがいいのです。

 

3-2)人生脚本

2つ目は人生脚本です。誰もがその脚本に従って人生を送っていくのですが、ほとんどの人は自分がどのような脚本に従って人生をやっているのか気付いていません。人生脚本は幼児のころの体験から出来上がっていて、その後の人生ではその脚本に従って、自動的に行動し、一生を送るのです。

脚本にはプラスのものとマイナスのものがあります。そして、そのマイナスの脚本に気付いたときは、意識することにより、マイナスの行動をプラスに修正することができます。

筆者には「重要であってはいけない」「急げ」というマイナスの脚本と、プラスの脚本として「健康第一」があります。健康第一の脚本は小学校1年生のとき(昭和20年終戦の年)に虫垂炎になり、手遅れの手術以来、消化器系が弱く、しょっちゅう腹痛を起こしていたことに由来します。健康には人一倍気を遣うようになったのです。毎日のラジオ体操、筋トレ、真向法、7~8000歩の歩行、40~100回のスクワットは何十年も続けています。

3-2-1)Jさんの豪放磊落、九死に一生という人生脚本

第108号ではJさんの人生脚本の話をしました。その人生脚本は豪放磊落、九死に一生、人間信頼、滅私奉公というプラスの脚本でした。Jさんは太平洋戦争中、海軍の軍人(機関大尉)でした。

軍艦に乗艦中、階級が一つ上のS少佐から理不尽に罵倒され、JさんはそのS少佐をなげとばしてしまいました。運悪く少佐は背骨を折るという再起不能の重傷を負ってしまったのです。通常なら軍法会議にかけられた後、重営倉(旧陸軍の懲罰の一つ)になるところでした。自室にこもって謹慎しているJさんは、暫くして艦長から呼び出されます。艦長は耳をつんざくような大声で「馬鹿者!貴様のような粗忽物は聞いたことがない。報告によればS少佐は貴様の足に躓いて転んだというではないか」そして、Jさんの耳元に顔を寄せて「昇格は辛抱せい」と言われたというのです。Jさんを戦列から外すことができないほど、海軍にとって必要だと、艦長は判断したのでしょう。Jさんの優秀さと人柄がしのばれます。

Jさんは名だたる海戦をすべて経験したにもかかわらず、生き残って、最後は戦艦ヤマトに乗艦していました。沖縄方面に向かう最後の出航は、行きの燃料しかない玉砕の船出でした。Jさんは機関大尉ですから、片道切符であることは勿論承知です。また、船底のエンジン周辺で指揮を執ることになります。100に1つも生き残りの可能性はなかったのです。ところが、Jさんは出港前日の夕刻、艦長から呼ばれます。「下船を命ずる」というのです。「どうして私を連れていかないのか」と食い下がるJさんに対して、艦長は順々と説きます。「歴戦の勇士を殺すに忍びない。海軍機関学校の教官に赴任せよ」というのでした。当然ながら死を覚悟していたJさんは後ろ髪を引かれる思いで離艦しました。その後のJさんの言動には、常に自分だけが生き残ったことへの贖罪意識が強く表れていました。早く戦友のところに行きたいというものでした。

終戦後、減速機付きモータをつくる会社を興されて、筆者の事務所は多くの特許出願依頼を受けました。そのお付き合いの中で、Jさんの人柄に惹かれました。いつもそばにいたいという感じの方でした。

3-2-2)種々の人生脚本

禁止令といわれる人生脚本の例が以下の通りです。

人を信じてはいけない、幸福になってはいけない、愛は必ず失われる、愛は持続しない、存在してはいけない、所属してはいけない、成長してはいけない、感じてはいけない、自分で判断し行動してはいけない、成功してはいけない、健康であってはいけない、楽しんではいけない

いずれの脚本も人生をマイナスに導くものです。通常、本人は無意識のうちにこの脚本に従って一生を送ってしまうのです。「人生どうもうまくいかない」と感じている人はどんな脚本か考えてみる必要があるでしょう。

ドライバーといわれる人生脚本の例は以下の通りです。

 急げ、完璧であれ、強くあれ、もっと努力せよ、人を喜ばせよ

プラスの人生脚本の例は以下の通りです。

一生健康、裕福な生活、尊敬を一身に、世のため人のため、素直に、謙虚に

 

4)1分間マネジャー

次に印象深く思い出されるのが「1分間マネジャー」です。筆者は開業以来、常に忙しい状態が続きました。2年間、盆暮れ以外はほとんど休みなく働き続けたのです。自宅が事務所だったものですから、ほとんど歩きません。運動不足は極限に達しました。運動不足の解消と、忙しさの解決は重要課題でした。そんなとき知ったのが、ダイヤモンド社発行の「1分間マネジャー」(K・ブランチャード、S・ジョンソン共著)でした。

この中に登場するマネジャーは、マネジメントを学ぼうとする若者に対して、「水曜日の午前中以外はいつ来てもいい、日時は貴君が決めたまえ」というくだりがあります。このマネジャーは時間がたっぷりすぎるほどあるのです。

筆者はおおいに興味を持ちました。何度も読みこみ、この本を元に2日間のセミナーを18回開くほどのめり込みました。所員の管理者に対してもセミナーを開き教育しました。

以下、「1分間マネジャー」の内容をかいつまんで説明します。
内容は次の通りです。

①如何に部下に意思決定させるか
②称賛を如何にするか
③叱責を如何にするか

の3つです。

 

4-1)部下の意思決定

忙しさを解消する有効な方法として、「部下の意思決定に参画するな」というのが①です。

部下が「A社の出願の件でご相談があります。私は、第1クレームで構成要件をA+B+Cにしたのですが、知財部の担当者はA+Bにしてくれと言ってこられました。そうすると従来技術を含んでしまう恐れがあるばかりでなく、課題を解決できるかどうかの疑問もあるのです。それでどうしたものか相談に来ました」

こんなとき、上司としてあなたはどうすべきか。「こうしなさい」と早々と結論を言ってしまってはいけないということです。意思決定は部下にさせなければなりません。上司が直ちに結論を出してしまっては、部下は自分では考えないで、次から次へと相談に来ます。上司の忙しさは増すばかりです。

「君ならどうしたらいいと思うか?」と訊きます。部下が「担当者を説得できるといいのですが、なかなか頑固な方でして、多分聞いてくれないと思います。そのまま出して、サポート要件違反の拒絶理由をもらってから対処するというのはどうでしょうか」と答えます。

あなたがこのアイデアは「いける」と感じたならば、「なるほど、いい考えだ。実行しますか」と問います。そして、部下に「はい。実行します」のように決断させるのです。できれば「あなたが決め、あなたが実行するのだからね」と念を押すのがいいでしょう。

しかし、あなたがこのアイデアについて、「実行してはまずいな」と感じたならば、その案の問題点を指摘します。例えば、「そうすると拒絶理由通知があったとき、担当者が変わっているかもしれないし、サポート要件違反の明細書を平気で出願するのかと苦情が来るかもしれない。苦情が来なくてもそう思うかもしれないよな。ほかにいい方法はないかな」と次々と訊きだします。

「ちょっといいアイデアを思いつきません」となり、時間がないようなときには、「説得できるといいが、それは難しそうなので、私なら従来技術を含む恐れのあること、及びサポート要件違反の恐れのあることを、出願控えを送るときに丁寧な書面にして送っておくようにするけど、貴君はどう思う?」とあなたのアイデアを出します。「それはいいアイデアだと思います」「そうしますか」「はい、そのように連絡します」「貴君の決断で貴君がやるんだからね」と部下の決断であることの念を押して、実行へと進みます。

 

4-2)称賛法

次に称賛法です。大切なことは称賛すべき事実を知ったときは、その場で直ちに行うことです。絶対にやってはいけないことは「このことは覚えておいて、ボーナスの査定のときに手心を加えよう」というように先に延ばすことです。そうすると、次にその人がミスをしてしまったりすると、怒り心頭、称賛すべきことは帳消しになってしまうからです。

次に大切なことは、何が称賛に値することかを具体的に説明することです。そして、付け加えます。上司としてそれがいかに気分良くうれしいことかということを告げるのです。

 

4-3)叱責法

3番目は叱責法です。如何に叱るかということです。
叱るのも、叱るべきことを知った直後です。称賛と同じです。事実を確かめます。そして、何が間違いかを正確かつ具体的に分かり易く説明します。そして、自分がどう感じているのかを率直に伝えます。怒っているのか、イライラしているのか、がっかりしているのか、困っているのか等を伝えるのです。

次が大切です。少し時間(数秒)をおいて、なんでもいいので、お褒めの言葉を付け加えるのです。怒り心頭の場合、非常に難しいのですが、せめて「今回のミスは日頃優秀な貴君らしくないねえ」と褒めるのです。さらに、「この間、緊急出願で頑張ってくれた。あれは本当によくやってくれた。今後も期待しているからな」とまで言えたら最高です。

以上3つ。部下の意思決定に参画するな、称賛法、叱責法です。マネジャーとしては大変参考になることです。

 

5)女性活躍

2021年5月から4回にわたって、当所の女性活躍について書いてきました。その中で印象に残っているのは、身びいきですが、恩田理事(筆者の家内のこと)に関する記述です。

開業以来、54年間筆者と一緒に働いてきました。始めは会計等総務的な業務を担当していましたが、そのうちに任せられる仕事はどんどん部下に譲りました。そして、自己啓発の教育と所員の相談相手が仕事になっていきました。84歳になる今日も続いています。所員に「会長(筆者のこと)と恩田理事のどちらかを首にするとしたら、どっちにする?」と尋ねたら、答えは決まっています。筆者が首になるのです。そのくらい面倒見がよく、所員から慕われています。最近も各部門長に部下の素晴らしい点を指摘させたメモをもらって、そのメモを元に一人ひとりインタビューしていました。所員のいろいろの面が分かってきます。多くは所員に対するお褒めになるのですから、モチベーションも上がろうというものです。褒められて涙ぐむ所員もいたのです。その恩田理事のことを、管理部門の本部長を務める女性のTさんが以下のように書いてくれました。

 

5-1)恩田理事のこと

恩田理事は、昭和43年に会長とお二人で弊所を開設されてから、会長と共に、事務所と事務所で働く多くの所員を育ててこられました。恩田理事のご活躍を語らずして、オンダ国際特許事務所の発展を語ることはできないでしょう。

(所員に対する深い愛情)

恩田理事ほど愛情の深い方を私は知りません。どの所員に対しても母親のような温かい愛情を注がれます。

若い一人暮らしの所員へは、煮炊きしたおかずをタッパーに詰めて「今夜食べてね」と渡されることがあります。温かい手料理は、故郷の母を思い起こさせ、疲れた体を癒し、明日への活力となるでしょう。恩田理事のやさしい手料理の味を知っている所員が多くいます。

恩田理事がお得意なのは、料理だけではありません。刺繍やレース編みの腕前もすばらしいのです。多目的ホールに飾られた琥珀色のピアノには、壮大な刺繍が一面に施された恩田理事お手製のピアノカバーがかけられています。所員の子どもが3歳くらいになると、恩田理事は刺繍入りのランチョンマットをプレゼントされます。かわいらしいお人形やお花、車の絵などを刺繍したところに、子どもの名前をローマ字でそっと添えられます。私の娘にもいただきましたが、「お友達にかわいいランチョンマットだね、って羨ましがられるの」と言いながら誇らしげに学校へ持って行っていました。丁寧にお洗濯しても落ちない食べこぼしの染みがついていますが、娘たちは10年経った今も大切にしています。

浮かない顔をしている所員を見れば、何か問題を抱えているのではないかと声をかけ、そして丁寧にお話を聞かれます。恩田理事の前に座ると、こころの蓋が外れて自分と素直に向き合えるのが不思議です。お話を聞いていただくうちに、「今の自分にとって必要だから起きているんだ。自分なら乗り越えられる。よし頑張るか!」そんな大きな力が湧いてきて、小さなことにくよくよしている時間が勿体なく感じてしまうのです。

また、元気いっぱいに活躍している所員に対しては、絶妙なタイミングで激励の声をかけられます。弊所の所員の多くが自分らしさを忘れず生き生きと活躍しているのは、無償の愛を注がれる恩田理事のおかげであるように思います。

(日々を愛でる豊かなこころを)

弊所には、観葉植物や季節の花が多く飾られています。それらの管理をされるのは恩田理事です。鉢のわりに植物が大きくなれば、頃合いを見計らって株分けをして、元気な命を次につなげられます。枯れかかった植物があれば、しばらく預かってお世話をして、元気に生き返らせてまた各フロアへ戻されます。「植物がお水を欲しいと言っているのか、日や風が当たって辛いと言っているのか、声を聞きながら我が子を育てるようにやさしい気持ちで育てなさい」と恩田理事はおっしゃいます。

弊所のインテリアは所員の自慢の一つです。恩田理事の心遣いが事務所の随所に息づいています。恩田理事が選ばれた会議室の机や椅子はおしゃれで品の良さを感じます。ひな祭りの季節には、総務受付や各フロアのちょっとしたスペースに、小さなひな人形が登場します。クリスマスの季節には、玄関に大きなクリスマスツリーが飾られます。季節の訪れをそっと知らせるそれらの置き飾りは、忙しい所員をほっこりさせてくれます。最近では、感染症拡大防止のため、手作りのお洋服と大きなマスクをつけたキューピー人形をエレベーターの前に飾られました。

(所員教育)

弊所では、すべての新入所員に対して自己啓発研修を実施します。人生の成功は目標設定にあることを学ぶ研修です。所員は、12週かけて取り組むプログラムの中で、心の中にあるぼんやりとした目標を明確にビジュアライズしていきます。恩田理事は、この研修のトレーナーとして、プログラムの効果を高めるために、週1回インタビューを行われます。所員が目標達成に向けて力強く行動できるよう、本来持っている力を引き出すお手伝いをされるのです。インタビューを受けると、不思議と前向きになり、自分の中から大きな力が湧いてくるような感覚に包まれます。

インタビューの中で、自分に自信が持てない所員には、自分のことを褒められるようになるまで、自分が頑張ったこと、できるようになったことを、些細な事でよいので毎日書き出すようにアドバイスされます。周りの人や肉親などが許せなくて苦しんでいる所員がいれば、その方にしてもらってうれしかったことを毎日○個以上書き出すように指導されます。きっと人間はいくつになっても完成することはありません。誰しも自分と向き合って悩みながら生きていくものです。恩田理事は所員がより自然体で自分らしく生きていけるように力を貸してくださるのです。

部門長に対しては、その部門に所属する所員の特性や相性などを見極めたうえで、グループ編成についてアドバイスをされることがあります。部門長でさえ気づいていない部員のよさを引き出すきっかけを作るとともに、部門がよりよい方向へ向かうよう力を与えてくださいます。組織というものは、業務内容にとらわれすぎず、「人」をベースに運営するものだ、という恩田理事の視点は、組織の活性化に大きく寄与しています。

(最後に)

『所員の物心両面の幸せを追求する』これは、オンダ国際特許事務所の経営理念手帳に記載の是の筆頭項目です。長年、所員一人ひとりのこころの幸せの追求に最も力を入れてこられたのは他でもありません、恩田理事です。オンダ国際特許事務所の今日の発展は、恩田理事の所員への深い愛情が根底にあると私は思います。育てていただいた私たち所員一人ひとりが、その御心を受け継いでいかなければと思っています。

 

6)教育勅語について

2012年に教育勅語について書いたのも忘れられないことの一つです。筆者は教育勅語の思想の普及は、落ち込みつつある日本の国力の復活に役立つものと確信しています。
明治天皇は明治維新となってから、日本中が西欧化する中で、日本的な精神文化が失われていくことを心配され、教育に非常に熱心に取り組まれました。
小学校から大学までを全国的に視察され、2つのことに気付かれたといいます。

すなわち、1つ目は道徳教育が軽視されたまま西欧化が進み、東洋的な倫理が忘れられていること、2つ目は教育が実社会に役立つものになっていないことでした。
このような背景の基に、日中の古典に題材を求め、紆余曲折を経たものが教育勅語になっているのです。

 

6-1)教育勅語思想普及の必要性

教育勅語の中心部分を普及し、小中学生に少なくともこの部分を暗記させ、常に唱和することが行われたならば、なにが起こるのでしょうか。

以下は筆者が青年会議所に入会したときの経験です。青年会議所では月1回の例会等、ミーティングがあるときには、必ず綱領を唱和します。それは「我々JCは社会的、国家的、国際的な責任を自覚し、志を同じうするもの相集い力を合わせ、青年としての英知と勇気と情熱をもって明るい豊かな社会を築き上げよう」というようになっています。

最初、この綱領唱和ほど筆者にとっていやなものはありませんでした。「できもしないことを、おこがましくもよく平気で読めるなあ」という思いだったのです。しかし、1年2年3年と読んでいますと、まず声を出して読むことへの抵抗がなくなっていきました。そして、その意味を考えるようになるのです。さらにJCのやっている事業との関係を考えます。「なかなかいいことやっているではないか。そうか、JCの事業はこの綱領を外さないようにやっていけばいいのか。分かった。いやこの綱領はすばらしいではないか。私の信念といってもいいな」というように、筆者自身が変化していったのを覚えています。

もう、無意識の中にこの綱領が完全にインプットされ、私の行動は自動的に、かつ、無意識にこの綱領に従って青年会議所活動を行うようになってしまったのです。
これは洗脳の過程です。何回も読み下すことの効果で、この状態は誰にも起こることなのです。

従って、もしこの教育勅語の中心部分である
「我々日本国民は、親孝行をし、兄弟仲よくし、友達を信じ、常に身を慎み謙虚にし、人には差別なく親切にし、よく勉強をし、手に職をつけ、立派な行いができる才能を養い、得た知能を世のために発揮し、公の利益になるように努め、公益になる諸事を開発し、憲法を重んじ、法律を遵守し、国に重大事変が起これば正義と勇気をもって国のために一身をささげます。そうすることによって、日本の国が永遠に栄えるように助けます」
を小中高生が常に唱和したならば、筆者に起こったのと同じ心の変化を起こします。自動的かつ無意識にこれらの徳目を実践するようになります。日本はどんなにかいい国になることでしょう。

 

7)太平洋戦争の終戦と戦争体験
7-1)玉音放送

玉音放送というのは、昭和20年(1945年)8月15日、太平洋戦争の終結を昭和天皇がNHKの放送によって宣言された、その放送のことをいいます。

筆者は小学校1年でした。同年7月9日岐阜市は米軍のB29による絨毯爆撃(地域一帯に対して無差別に行う爆撃のこと)により焼け野原となりました。筆者は命からがら生き延びることができました。我が家もすべてが焼き尽くされ、家財道具一つないバラックの生活の中、その日が訪れました。

前日には玉音放送があることの御触れがありました。近所に2軒だけ焼け残った家があり、当日の正午、近隣から大勢の人が集まりました。きちんと整列して、頭を垂れてかしこまってラジオから流れる放送を聞いたのです。終戦の詔勅は以下に紹介する文の前には、時局を収拾するため、ポツダム宣言を受諾し戦争を終結することを述べています。そして、「耐えがたきを耐え・・・」という有名な下りになります。最後の部分のみ紹介します。

然レトモ朕ハ 時運ノ趨(おもむ)ク所 堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ 太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ 國體ヲ護持シ 得テ 忠良ナル爾臣民ノ赤誠(せきせい)ニ信倚(しんい)シ 常ニ爾臣民ト共ニ在リ

若(も)シ夫(そ)レ 情ノ激スル所 濫(みだり)ニ事端ヲ滋(しげ)クシ 或ハ同胞排擠(はいせい) 互ニ時局ヲ亂(みだ)リ 為ニ 大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ  朕最モ之ヲ戒ム

宜シク 擧國一家子孫相伝ヘ 確(かた)ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤(あつ)クシ 志操ヲ鞏(かた)クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民 其レ克(よ)ク朕カ意ヲ體セヨ

放送はすぐ終わりました。しかし、小1の筆者には全く理解できませんでした。放送が終わると大人たちは「日本は負けたのだ」と口々に話していました。沈痛な面持ちでした。日本人の誰もが「日本が負ける」ということは考えていませんでした。筆者も「そんなことがあるものか。何かの間違いだ」と腹を立てながら、家に帰りました。

 

7-2)昭和天皇のマッカーサー元帥訪問

そんな中、昭和20年9月10日、はじめての天皇と占領軍総司令官マッカーサー元帥との会見が行われました。そのとき昭和天皇は「私は、国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の裁決に委ねるため、お訪ねした」と告げられたのです。マッカーサー元帥の回想録の中に出てくる下りです。これに対して、マッカーサー元帥は「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」と同じ回想録の中で述べています。

 

7-3)天皇全国巡幸

そして、翌昭和21年5月から昭和29年にかけて、昭和天皇は全国を巡幸され、国民を励まされました。
岐阜の巡幸は昭和21年10月24日~26日でした。筆者は小学2年生でしたが、全校生とともに加納新町へお迎えに行きました。沿道には実に多くの岐阜市民が集まっていました。天皇は夕刻薄暗くなった岐阜市内を車でゆっくりと目の前を通られたのでした。天皇が巡幸されるだけで、国民が大変励まされることを目の辺りにしたのでした。

 

7-4)食糧不足

筆者の記憶では終戦前から戦後昭和25年までは、深刻な食糧不足が続きました。父が警視庁に勤める警察官だったことから、筆者は小学校に上がる直前まで東京で暮らしていました。当時100%コメのご飯は食べられませんでした。50%もの大豆の入ったご飯は口に合わないのでなかなか食べられなかったことを思い出します。

あるとき父がどこからかバナナを1本だけ仕入れてきました。筆者はそれを半分もらいました。そのおいしかったことはよく思い出します。食べ終わって、バナナの皮の内側についている柔らかい部分をこそげ取って食べたのですが、さすがにそれは食べられる代物ではありませんでした。現在もバナナ一本まるごと食べるにはいささかの抵抗感があります。

小学校5年生の給食のときの話です。その日の給食は豚汁でした。大きな容器で豚汁が運ばれてきました。表面には真白なラードがびっしり浮いていました。誰もが「そのラードをたくさん入れてもらえないかなあ」と思ったものです。先生は全員に公平に分けられるように表面のラードをしゃもじでよけながらよそっていました。

筆者の家は農家でしたが、それでもサツマイモの蔓を刻んで炒めて食べるほどの食糧不足でした。終戦後2,3年の話です。
終戦後、軍隊が解散になる前に、筆者の小学校には日本陸軍の兵隊が駐屯していました。しかし、食糧不足のため、昼になると一斉に外出して民家を訪ね、昼食のため「何か食べさせてください」ということが起こりました。筆者の家にも来ました。「うどんしかありませんが」「なんでも結構です」と、つけ麺にして食べていったことがありました。
コメは統制されていて、持ち運びは制限されていました。しばしば各所で検閲が行われ、コメを持っていると没収の憂き目にあうということがありました。

現在の暖衣飽食、ダイエットにいそしむ等は、考えられない時代だったのです。
昭和27年、中学2年生のとき、ホームルームは2階にあったのですが、担任のO先生は「体重が減るので、何回も階段を上がったり下りたりしないようにと」注意されたことがあったくらいです。当時、クラスで体重が1番というのはステイタスでした。

 

7-5)岐阜市爆撃

昭和20年7月9日、深夜のラジオ放送は四日市が攻撃されていることを声高に叫んでいました。その放送が終わらないくらいに岐阜駅に火の手が上がりました。その直後です。我が家にも大型の焼夷弾がおちました。瞬く間に火の海です。自宅敷地内に作ってあった防空壕には入らないで、50メートル先の柿の木畑に逃げました。雨あられと焼夷弾が降り注ぎます。焼夷弾が落ちてくるときには「ザーッ」という音がします。怖いので布団をかぶります。地上に落ちると、破裂して8メートル四方が火の海になります。それを柿の木の枝で叩いて消すのです。その中にいたら助かりません。小学校の犠牲者は6人でした。防空壕は直撃弾でくしゃくしゃに焼けただれていました。そこに逃げ込んでいたら全員あの世だったと思われます。

 

8)まとめ

41年間のトップトーキングの記録は5年ほど残っていない部分がありました。今回終了するにあたって、残っている分をざっと見てみました。よく書いてきたなと思うほど膨大な量になっていました。今回取り上げたのは僅か7項目だけでしたが、そのほかにも取り上げたい項目がありました。

初孫「舞」を養育する機会があり、交流分析TAの基本的ポジションI’m OK.You’re OK.を孫に植え付ける試み成功した話があります。自信をつけること、我慢をすることを中心に行いました。幼稚園に上がると、その成果が具体的に現れました。同じクラスの園児がお母さんに「舞ちゃん、舞ちゃん」と彼女のことを報告するものですから、父兄会のときには「どの子が舞ちゃん?」とささやくお母さんが何人も出ました。しょっちゅう、「遊びに来てください」「お邪魔してもいいですか」ということがあったのです。

小善大善ということも大変インパクトの強い記述だったと思っています。京セラ創始者稲盛和夫さんの語録にある事項です。「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」ということです。次の例が典型的なものです。企業経営で利益が出たとき、節税のために、ボーナスの支給額を増やします。従業員も喜びます。経営者も誇りに思えます。このやり方は小善であって、大悪に繋がります。コロナショックで業績が落ち込んで大きな赤字になってしまった場合、即給与減額やリストラに進まねばなりません。大悪です。好業績であっても、しっかり税金を納めます。従業員は「そんなに税金を納めるくらいなら、俺たちのボーナスを上げてくれればいいのに」と思います。それに応えることなく、ボーナスの増額はほどほどにして、税金を納めます。従業員に対しては、情け容赦のない非情の所業となります。そうすると通常、納めた税金と同額の内部留保ができます。会社に現金が貯まるのです。税金を納め続けることにより大きな内部留保ができます。コロナショックで、業績が急激に悪くなったとしても、内部留保を取り崩すことにより、危機を乗り越えることができるのです。これぞ大善です。筆者の事務所はリーマンショックのときも、それにより見事に乗り切ることができました。

そのほかに「生きがいの創造」、「もし特許事務所の職員がドラッカーを読んだなら」「勝海舟の人生脚本」「QCの勧め」「マリリンモンローの人生脚本」等が記憶に残る記述です。

長らくのご愛読、誠にありがとうございました。貴社知財部のご発展を祈念致します。