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1.恐るべき車社会上海

2008年3月

特許業務法人オンダ国際特許事務所
常任理事 谷尾唱一

 

某年某月某日。日曜日の入国とはいえ、1時間以上かけて入国審査後に並んだ上海浦東国際空港タクシー乗り場の行列は、過去に経験をしたことのない長蛇の列。人種も肌色もいろいろ。おおげさにいえば100メートルはあったか。ここでも乗車待ちに1時間以上を要した。成田空港〜浦東空港の正味飛行時間よりも、浦東空港着陸後〜市内までの所要時間のほうがはるかに長い。

道路は、タクシーを含む乗用車はもちろん、泥だらけの工事用資材運搬車、貨物車が異常に増えた感もある。そんな中、空港〜市内間約40キロにわたるタクシーの高速道路スピードレースは、自由参加の常時開催である。これほどのレースを常習とする彼らには、市内の渋滞に対する反動があるのだろうか。あるいは乗客に「中国の自動車もこんなに走るのだ」と言いたいのだろうか。それにしても、上海ではタクシーの定番である「フォルクスワーゲン・サンタナ」は、小振りな割にはよく走る。どちらにしても客には迷惑極まりなく心臓に悪い。毎度のことながら命と引き換えで乗車する覚悟が必要だ。日本人にはできない芸当だろう。

滞在も長くなれば、後部座席からでも次の運転行動が確実に予測できるようになった。車線変更、追い越し、クラクション、ブレーキ、何でもありだ。慣れないうちは、車内で両足を目一杯踏ん張り、天井のグリップを手のひらに汗をかく程に強く握り締め続けたものだ。 空港では愛想のよい運転手にはお目にかかったことがない。大きなスーツケースは手早くトランク積み込んでくれるが、片言の中国語で行き先を告げても理解したのかしてないのか全く反応がない。身を任せた後だけに不安になるが、理解してなければ走ることはないだろうと勝手に判断する。どうしても言葉が通じなければ、漢字メモを運転手に渡せば事が容易に済むのであるが、中国語の実地体験だと我を張ってメモは渡したことがない。そんな状況でも不思議なことに、目的地を間違えたことや目的地までのメーター料金が過大であったことは一度もない。どうやら、最初の「ニイハオ」の声掛けで、少しは違和感が解けることが段々解ってきた。

もちろん、こんな運転手ばかりではない。市内の流しのタクシー運転手の中には、底抜けに明るい人もいる。「ニイハオ」で意気投合するのもいいが、返ってくる中国語はまるで理解できず、チンプンカンプンであいづちも打てない。ニイハオの一言が逆に災いしていることを悟る。さりとて、運転手にボディーランゲージではお互いの生命に関わる。分かった振りして「あ」「い」「う」「え」「お」の連発でごまかす。

某日、どうやら目の前で危険運転した運転手は、台湾人で運転マナーが怪しからんと盛んに大声で怒りながら笑っている。相手と話もしないのになぜ台湾人と解るのだろうか理解に苦しむ。ひょっとすると、運転マナーの悪いのは全て台湾人で、中国人は全てマナーがいいと言いたいのかも知れない。ただ、そんなに大声を出さなくても聞こえるというのに。とかく中国人はやたらに声が大きい。

母国語しか会話しない運転手たちは、2010年の上海世界博開催時にはどうするのだろうか。乗車時に「お客様こんにちは。○○タクシーをご利用頂き有難うございます。」の英語テープが流されることがあるが、この仕掛けだけですべてに対応できるはずがない。他国のことながら心配になってくる。 上海市内のタクシーのフロントグリルには、運転手の認識番号プレートが掲げてあり、プレートには0〜3の「星」マークが打たれている。星の数は運転技量によって決まると思っていたらそうではない。どうやら、星の数が多い順番は、タクシー運転手資格取得の古い順番らしい。星のない運転手は新人ということだ。三ツ星タクシーだからといって、タクシー歴は長いが決して優良運転手であることを証明するものではない。

とはいうものの、こんなことがあった。

日本への帰国当日、滞在していたマンションにタクシーを予約しておいた。予約時間15分前に迎車してくれたタクシー運転手は三ツ星の女性であった。空港への比較的便宜と思われるルートを事前に告げ、本人も諒解しての走行であったが、なぜか途中で道を間違えたという。内国人であれば大喧嘩になるところであろうが、時間的余裕を見ての出発であったから、気にしなくてもよいことを伝えた。

ところが、空港までの5キロ程手前だっただろうか、彼女は高速道路上で突然料金メーターを上げてしまった。市内で道を間違えたのは私の責任である。だから、全部の料金を受け取ることはできないという。5キロも道を間違えたとは思えないのに、である。思わず別れ際にチップを払った。その対応ぶりは、三ツ星運転手がなせる業であったからかどうかは解らないが、現代中国上海にもこんな文化もあるということを知って嬉しくもなった。

上海の運転マナーを見ていると、常に事故と背中合わせだ。なぜか仕掛けられれば絶対に譲ることはない。バス専用レーンなどない上海では、バスの運転マナーも同じで、通勤時のラッシュアワー渋滞の中を重なり合うように、右折・左折をやり放題だ。車の図体が大きいだけに始末が悪い。前車との車間距離が1メートルもあれば間違いなく割り込まれる。割り込まれた運転手はうるさいほどクラクションを鳴らすが、相手は全く意に介しない。

このためか、追突しないかと思うほど前車との車間距離は全く取らないといっていい。事故が起こらないほうが不思議だ。 市内での死亡事故は見たことはないが、事の大小にかかわらず事故れば当然その現場で長時間の口角泡を飛ばした大声の言い争いになる。そうなると、時として事故に関係のない人々がどこからとなく集まってくることもある。そればかりか外野席での議論が始まる。その内に分の悪い側が相手側にタバコを勧め、わずかな現金を渡すことで解決済みにしてしまう。その間に起こる道路渋滞など当事者は全くお構いなしだ。

中国は車優先の社会である。自家用の自動車を所有することは、富裕層であることのステータスだから、人を優先することはまずない。大部分の庶民は自転車か、原付自転車かバイクである。車が人を避けることがないのだから、人が車を避ける以外ない。おまけに、日本とは逆の右側通行だ。 上海語では交差点で左折することを、大回りするから「大拐」(da guai)といい、右折は小回りだから「小拐」(xiao guai)という。上海でしか通用しない言葉である。特に信号のある横断歩道を渡る時は、左から「小拐」で猛進してくる車にはよくよく注意して避けなければひかれそうになる。このような状況になるのは、前方の信号が赤でも「小拐」が可能なことに原因がある。郷には従わなければならないが、これには慣れが必要だ。

上海市民の道徳意識調査でも、「小拐」で猛進する車やバスに、55%以上の市民がルール違反だと怒っているというデータもある。 また、信号間の距離が長いから、信号のない場所で道路を横断することは常識化している。中央分離帯のない道路の横断は、まず左を確認した後で右側を確認しなければひき殺されそうになる。この場合、横断時には決して走ってはならない。走ればかえって事故になるという。なぜなら、車の運転手は横断者が走らないことを前提に運転しているからだ。走られればインプットしたデータが壊れるのだろう。歩行者の事故回避は全て自己責任において行われなければならないのである。